沿革

◆ 本校が生まれるまで
 焼山町の教育は,明治6年5月18日 安芸郡焼山村字下荒地の円福寺堂内に「乗尋館」として始められた。
 その後,小学校令発布に基づいて「焼山学校」「焼山小学校」「焼山簡易小学校」「焼山尋常小学校」と地名を関した名称でいろいろ変遷したが,大正7年には高等科が付設され,校名も「焼山尋常高等小学校」となった。
 昭和6年には本庄村と焼山村が合併して昭和村になり,校名も「昭和西尋常高等小学校」と改称された。
 昭和12年に始まった日支事変が,昭和16年には太平洋戦争まで広がると,その年国民学校令が出され,小学校は昭和西国民学校と改められた。しかし,昭和20年の敗戦で国民学校令がとけ,昭和22年より昭和西小学校となった。
 昭和31年に昭和村が呉市に合併されると,校名は呉市立昭和西小学校と改称された。ところが,一寒村だった昭和村も昭和38年頃から呉市のベットタウンとして団地造成が始まり,200余名だった児童数も2倍以上の450名に増え,今までの校地,校舎が狭くなり,昭和43年には「小大庭ヶ丘」に分校を造り,本校・分校に分けての不便な学校経営が始まった。
 その後も,団地造成は進み,児童数は増える一方で,昭和46年には1000名を超える数となったが,まだまだ増える傾向なので昭和46年4月に分校を独立させ呉市立昭和南小学校とし,本校はそのままの校名(呉市立昭和西小学校)で,昔からの伝統を受け継いだまま旧校舎で授業を続けた。児童数362名
 昭和46年9月には宮ヶ迫の地に新校舎を竣工し移転した。児童の増加は後を絶たず分離時には362名だったが,昭和51年には1300名という,大所帯となるも,団地造成は進み児童が増えるので昭和52年4月には昭和西小学校を分離し,昭和北小学校が槇原の高台に誕生した。
 これが本校の始まりであるが,昭和52年8月20日までは昭和西小学校にプレハブ教室を作っての間借り生活であった。

昭和52年 4月1日昭和西小に教室を借りて開校。9月に現在地に移転し落成式をあげる(児童数425名)。
昭和60年 呉市教育研究指定校「教育課程」を委嘱される。
平成元年  「基礎的な学力の一層の定着を図るとは」をテーマに第5回教育研究会文部省研究開発学校報告会を開催する。
平成2年  コンピュータ41台を導入し,CAI教室を新しく設置する。
平成4年 「校舎は15才」を挙行し,創立十五周年記念誌「ふるさとやけやま」を作成する。
平成7年 「子どもの思いを育む表現」をテーマに研究を深める。
平成9年 創立20周年記念事業として,全校児童の表現集「つばきのかざし」を作成する。
平成10年 障害児学級が新設される。全校児童が考え「ひまわり学級」となる。
平成11年 呉市教育研究指定校として「生き生きと活動し,自らを豊かに表現できる子の育成」をテーマに昭和北小学校教育研究会を開催する。
平成14年 「生き生きと活動し,自らを豊かに表現できる子の育成」をテーマに呉市教育研究推進校に委嘱される。
平成15年 「北小ふれあい日曜参観日」にて,地域の方と保護者に授業公開・ふれあい行事を行う。
平成16年 保護者と地域の協力者で「北小ついでパトロール」を発足する。
平成17・ 18年 「伝え合う力を育成する積極的な生徒指導」をテーマに17・18年呉市教育研究推進校に委嘱される。

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